すばらしい人体、人体なんでそうなった?、残酷な進化論、形を読む

解剖学や生理学を学ぶと、人体の仕組みに畏敬を感じる。なるほど優秀な医学生が試験で苦労するくらい、複雑かつ巧妙だ。

しかし、ヒトにはヒトへの欲目があって、ヒトは生物のうちでも特によくできていると思いがち。実際、キリスト教世界の「生命の大いなる連鎖」では、ヒトは神と精霊、霊魂に次ぐ存在になっている。

 

存在の大いなる連鎖 Great Chain of Being (Wikipedia)

 

そこに進化論は、現世の生物を平らに並べ、それぞれにいたる進化の過程を系統樹として表した。種の間に優劣の概念はない。ところが、系統樹を考案したエルンスト・ヘッケル自身が、「反復説」でヒトにいたる進化の系譜を「生命の大いなる連鎖」のスタイルに戻した。欲目に逆らうのは難しい。

反復説を簡単に言うと:(1)個体の発生はヒトに至る進化の過程をリピートする (2)発生の最後にもうワン・ステップ付け加われば、新しい種のできあがり(魚に脚が生えれば両生類、など) (3)発生が本当に進化を繰り返したら時間が掛かるので、そこはテキトーに省略してササッと済ませちゃう

そういうわけで、人体を褒め称える書籍が、過去から現在までたくさんある。レッド・オーシャンである。

 

魚類の系統樹(Near TJ, Dornburg A, Eytan RI, Keck BP, Smith WL, Kuhn KL, Moore JA, Price SA, Burbrink FT, Friedman M, Wainwright PC. 2013. Phylogeny and tempo of diversification in the superradiation of spiny-rayed fishes. Proc National Acad Sci 110:12738–12743.)

 

人類に至る系譜 The Human Pedigree (Wikipedia)

 

一方でやはり、発生生物学の人であったり、分子進化の人であったり、遺伝子重複の人であったり、「虫採り」の人であったりすると、ヒトの進化をとりわけ立派だとすることについて「それほどのこともあるまいよ」と思ってしまう。

哺乳類の卵細胞を発見し、発生学の父とも賞されるベーアは、反復説に対してこんな寓話をしたためた(Further Development 25.1.2: Ernst Haeckel and the Biogenetic Law (an Informed Opinion)より)。トリとヒトの立場が逆転した世界では、トリが高度な知能を獲得した。トリの学者が進化についてつぶやいた:

これら四足動物や二足動物には、我々の胚によく似た特徴がある。頭蓋骨が分割され嘴を欠いているのは、ちょうど抱卵第1週の我々そのままである。彼等の肢がどれも同じような形態をしているのも、同時期の我々に近似している。体表には完全な羽根がないかわりに羽根の軸だけが生えている。我々のヒナの時期にそうであることからして、我々は彼等より進化しているわけだ。その上、これら哺乳類は生まれた後も長期に渡って自分で餌をみつけることができないし、地上から自由に飛び立つこともできない。彼等が自身を我々よりも高等だなどと考えることが、いったいあり得るだろうか? — カール・エルンスト・フォン・ベーア

 

 

2021年刊。著者はブログTwitterの「外科医けいゆう」としてのほうがよく知られている。一般向けの著書が多数ある。

本書は、人体のなりたちの素晴らしさを賞賛するタイプの本だ。もちろん、解剖学、生理学、生化学を詳しく修得した医学生諸君には、本書の内容の多くは既知に違いない。それでも、消化器外科専門医なりの視点があり、興味深い切り込みがある。

もくじ(抜粋)

  • はじめに
  • 第1章 人体はよくできている
    • 私たちの体は重い
    • 意外に知らない目の働き
    • 目の動きをコントロールする力
  • 第2章 人はなぜ病気になるのか?
  • 第3章 大発見の医学史
  • 第4章 あなたの知らない健康の常識
  • 第5章 教養としての現代医療
  • おわりに

例えば、本書のプロモーションにも使われている、肛門の排便調節機構がそうだ。これを基礎医学のテキストで探そうとすると、詳しい記載がなかなかない。『グレイ解剖学』、『臨床のための解剖学』、『イラスト解剖学』、『コスタンゾ生理学』、『ガイトン生理学』には見当たらなかった。『人体の正常構造と機能』に少し記述がある。『プロメテウス解剖学アトラス 胸部/腹部・骨盤部』には、4ページにわたって記載されていて、詳しい。授業で勉強した憶えのない話題を本書でみつけたら、基礎医学の大きなテキストや、臨床医学のテキストを探してみよう。それが筆者のいう「知的冒険」になる。

「死体の重さ」の話しは、かつての医学生としての解剖学実習の体験からだ。『グラント 解剖学実習』をテキストに使っていたら、解剖体を腹臥位にした解剖学実習初日に感じたはず。医療関係者なら、同じ事を体を動かせない患者のケアで実感するだろう。

 

『プロメテウス解剖学アトラス – 胸部・腹部・骨盤部』から

 

本書に、鎌状赤血球貧血についての記載がある。ヘモグロビンのポイントミューテーションのために赤血球が三日月型に変形し、脾臓にトラップされるなどして貧血を発症する遺伝性疾患である。ホモの場合に重度の貧血になる。ヘテロでは貧血は軽度で、マラリア原虫が赤血球に取り憑きにくい。そのため、マラリアの流行地域では生存上有利になる。これは『ストライヤー生化学』に、タンパクのコンフォメーションの文脈で、初版から言及されている。

興味深いのは、これと同じ話があとで紹介する『人体、なんでそうなった?』にも出てくること。同じ事実でも正反対のコンテクストに乗せられている。

また、網膜や外眼筋の構造は、本書では解剖学的にオーセンティックに解説される。あとで紹介する本のように、それを蛸の眼と比較して設計ミスだと言ったりはしない。

 

原著は2018年刊。著者はニューヨーク市立大学の教授で、癌の生物学、遺伝学、法科学に業績があり、思い出したころに更新されるブログや、もっと更新の稀なYouTubeチャンネルもある。

人体が進化上まだ最適化されていないポイントを、機能解剖学、栄養学、遺伝学、生殖医学、免疫学、認知心理学の視点から概観する。最初の2〜3章が興味深く、あとのほうは小話っぽくなってくる(個人の感想です)。

第1章の網膜の造作がわるいのは、あとで紹介する『形を読む』にもでてくる。

鎌状赤血球貧血の話しは、本書では選択圧の生じた理由を社会背景まで含めて論じられていて、興味深い。

  1. 一夫多妻制の社会では、元気なオスがオス同士の競争に勝ち、複数のメスを総取りする
  2. マラリアの存在下ではヘテロが最も元気で、野生型はマラリアのために、ホモは貧血のために元気がない
  3. 従ってヘテロのオスが複数のメスを独占し、多くの子孫を残す
  4. メスの遺伝型に依らず子孫の半数がヘテロで元気。残りは野生型かホモで犠牲になる

目次(抜粋)

  • はじめに:みよ,母なる自然の大失態を
  • 1章 余分な骨と,その他もろもろ
    (網膜が後ろを向いているわけ.鼻水の排水口が副鼻腔の一番上にあるわけ.膝が悪くなるわけ.椎間板の間の軟骨がいとも簡単にずれるわけ,などなど)
  • 2章  豊かな食生活?
    (ほかの動物とはちがって,人間がビタミンCやビタミンBを食事で摂らねばならないわけ.子供や妊娠している女性のほぼ半数が鉄分を摂っているのに貧血気味なわけ.人類がみなカルシウム不足なわけ,などなど)
  • 3章  ゲノムのなかのガラクタ
  • 4章 子作りがヘタなホモ・サピエンス
  • 5章 なぜ神は医者を創造したのか?
  • 6章 だまされやすいカモ

 

2019年刊。著者の専門は分子古生物学で、主なテーマは動物の骨格の進化。本書では、進化や博物学の視点からヒトを位置づける。

私たちヒトは進化の頂点でもないし、進化の終着点でもない。私たちは進化の途中にいるだけで、その意味では他のすべての生物と変わらない。それに、いくら進化したって、環境にぴったりと適応する境地には辿り着けない。環境に完全に適応した生物というのは、理想というか空想の産物であって、そんな生物はいない。……ヒトって、大したことはないのだ。オンリー・ワンではあるけれど、ナンバー・ワンではないのだ。だから、ヒトという種が偉いと思っている人には、ある意味、進化というのは残酷なものかもしれない。— はじめに、より

本書にもやはり、ヒトの眼のダメなポイントや、難産になったことが取り上げられる。

胸部の解剖や発生を学ぶと、反回神経が出てくる。嗄声がでたら左肺上葉の癌を疑う、アレだ。胎生時に心臓が下降するとき、第6大動脈弓(左;右は第4)に下喉頭神経が引っかかってできる。ヒトはともかく、キリンだとなかなかの距離になる。

キリンの解剖の研究者もnoteに書いている

進化には非常に長い期間(何万年、何億年)を要すると一般には考えられているが、意外に短い期間でも進化し得るという指摘は重要だ。

母乳の主な栄養はラクトースで、乳児の消化管にはそれを分解するラクターゼが分泌されている。しかし離乳すれば不要だから、その発現は1/10ほどに減少する。ところが5〜6千年前に酪農が始まると離乳後も乳を摂取するようになり、ラクターゼが減らない変異、ラクターゼ活性持続症が選択され広まるようになった。この変化は数千年の間に起こったと考えられている。

もくじ(抜粋)

  • はじめに
  • 序章 なぜ私たちは生きているのか
  • 第1部 ヒトは進化の頂点ではない
    • 第1章 心臓病になるように進化した
    • 第2章 鳥類や恐竜の肺にはかなわない
    • 第3章 腎臓・尿と「存在の偉大な連鎖」
    • 第4章 ヒトと腸内細菌の微妙な関係
    • 第5章 いまも胃腸は進化している
    • 第6章 ヒトの眼はどれくらい「設計ミス」か
  • 第2部 人類はいかにヒトになったか
    • 第7章 腰痛は人類の宿命だけれど
    • 第8章 ヒトはチンパンジーより「原始的」か
    • 第9章 自然淘汰と直立二足歩行
    • 第10章 人類が難産になった理由とは
    • 第11章 生存闘争か、絶滅か
    • 第12章 一夫一妻制は絶対ではない
    • 終章 なぜ私たちは死ぬのか
  • おわりに

 

 

バカの壁』(2003年)で広く知られるようになった著者は解剖学者だが、昆虫採集とくにゾウムシの専門家でもある。本書は、1986年に培風館から出版された同タイトルの本の文庫化である。文庫化にあたって、前書きが追加されている。

もくじ

  • はじめに
  • 1 自己と対象
  • 2 形態学の方法
  • 3 形態とはなにか
  • 4 対応関係――相同と相似
  • 5 重複と多様性
  • 6 純形態学
  • 7 機械としての構造
  • 8 機能解剖学
  • 9 形態と時間
  • 10 形態の意味

新しい前書きにあるように、この本で考察されたことが後に『バカの壁』になったし、最近の『遺書』にもなっている。『バカの壁』やその後の多くの著書(『遺書』を除く)との違いは、自身で執筆していることだ。

『バカの壁』は、著者の言うことを編集者が口述筆記してまとめられた。したがって、学者特有の話しのメンドくささが抑えられ読みやすい。一方で、たぶん、著者の本心とはズレていたりするかもしれない。少なくとも文体が違う。『バカの壁』は敬体と常体が混ざった文章で書かれている。つまり、批評家の小林秀雄の文体をパクってリスペクトしている。当時の文筆系オヤジたちは皆、小林秀雄にカブれていたので仕方ない。

小林の批評は個性的な文体と詩的な表現を持ち、さまざまな分野の評論家、知識人に影響を与えた。—Wikipedia

『形を読む』は著者自身の文章だ。文章に「グルーブ感」があり「ピュア」だ。長々と論じた後に「誰か教えてくれ」と落とす。現代の関西の話術なら「知らんけど」「知らんのかーい」で締めるのと相同だ。ハシゴの外し方のノリがたのしい。

蛸(頭足類)の眼の優れていること、生物が都合2回「カメラ眼を発明」した話しは、ここで紹介した他の本にもでてくる。

ヒトの網膜では光センサーの細胞が入射方向の反対側にあるが、頭足類の網膜では入射方向を向いている。信号を伝えるニューロンがジャマにならないので、感度がヒトの10倍あるという。盲点もない。ヒトの網膜は脳から発生するが、頭足類では表皮由来だ。

脊椎動物の眼では、神経線維は網膜の前を通っているため、光が遮られ、神経線維が網膜を通過する部分には盲点ができる。頭足類の目では、神経線維は網膜の後ろを通っており、光を遮ったり、網膜を貫通することがない。1=網膜、2=神経線維。3=視神経。4=脊椎動物の盲点。Widipediaより

 

 

ところで、撮像素子として一般的なCCDCMOSでは、ヒトの網膜と同じように受光部分が入射方向の反対側にあり、入射側に信号読み出しの配線がある。これを逆にした「裏面照射型」もあったが、ノイズが増加しやすいこと、製造が困難なことから、研究向けの特殊なカメラにしか使われていなかった。2009年にソニーがこれを量産し、いまでは民生用カメラやスマートフォンのカメラにも裏面照射型CMOSが多く使われている。ヒトの進化の途中にソニーがいたらよかったかもしれない。

本書の発行は最近だが、もともと古い本の文庫化なので、サイエンティフィックな記述は現在に通じる「視点」として読むのがいい。PubMedなどで裏を取っていくと、より興味深く読める。時代の前後関係を整理しておこう。

大野 (すすむ)氏の英文の著書『Evolution by Gene Duplication』は、1970年刊。本書で論じられる「重複と多様性」への分子進化上の裏付けは既に知られていた。

Nüsslein-Volhardらによって、形態形成遺伝子(モルフォゲン)として初めてショウジョウバエから同定されたbicoidが発表されたのが、1988年。本書の2年後である。この発見は1995年のノーベル生理学賞につながった。また、筆者と同じ(当時)東大の浅島誠氏が分化誘導物質アクチビンを発表したのが、1990年(発見は1988年)。以降、発生生物学が遺伝子を言語に続々と説明されていった。

トレーニングによる筋肥大のメカニズムについて、本書では「知らない」となっている。実際、そのような研究の報告が出るようになったのはこのあとで、文献が増えてきたのは1990年代後半からのようだ。