剥離と切離
夏目漱石「夢十夜」第六夜では、「私」が運慶を夢に見る。
運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
解剖での剖出も、まあ、同じだ。とはいえ、このあと「私」が同じようにやってみようとして木から仏像を掘り出せなかったように、ちゃんと分かってやらないと、何も出てこない。
ポイントは「剥離」だ。剖出しようとする構造なり、器官なり、組織なりは、結合組織の中に埋もれている。目的の構造と結合組織とを、粗密や線維の向きの違いに注意して識別し、結合組織をはがしとる。たいていは、結合組織の方が疎で軟らかいので、つまんだり割いたりすればうまく取り除ける。
このときに使うのが、次のツールだ。
- ハサミ
- プローブ
- ピンセット
- 指
ハサミといっても、峰の側で割くように組織を分けるのに使う。刃で切るのではない。切ってしまうと、組織の質感の違いの区別なく破壊する。
ハサミを使った剥離のしかたを早いうちに身につけると、そのあとの解剖がスムーズに確実に進む。この操作は外科手術でも使う。最初はまどろっこしく感じるかも知れないが、ぐっと堪えて練習しよう。
剥離していって重要なものを切らないのを見通せたら、ハサミの刃の側で切り離してよい。効率的に剖出を進められる。(外科手術では電気メスで止血しながら切る。)
一方で、メスで切る(切離する)場面はごく限られている。
- 目的の構造の方が、除去するものより軟らかいとき
実習書の最初で詳しく解説されているのが、切り開いた皮膚を剥がすとき。やわらかい浅筋膜を残して、その中の血管や神経を剖出するためだ。
深筋膜を除去して筋の表面をあらわにするときにも、皮膚と同じ要領でメスを使うことがある(実習書に指示されている)。前腕の深筋膜を取り除くときなどだ。一部の筋束が深筋膜に起始しているので、深筋膜を引っ張ると筋束が千切れてしまう。そこをメスで切り離す。
とはいえ、この操作は皮膚をはがすよりも難しく、重要なものまで切ってしまいがちだ。筋の場合なら、いつの間にか腱膜まで切っていることがある。細心に。
実習初日ででてくる大後頭神経は、まわりの結合組織が神経と同じくらい固いので、剖出が難しい。伴走する血管や周りの組織をよく観察しながらハサミで剥離していけば、剖出できるはず。ここでメスを使うと、多分切ってしまう。