死者の奢り、ヒトの見方、病院の怪しい噂と伝説
最近「この件」が話題に上ることはなくなっていたが、つい先日ひさしぶりに聞いた。
本書は、2003年前後に話題になったブログの書籍化(著者のインタビュー記事がある)。都市伝説を助長しないため、ここではサブタイトルの方で取り扱おう。当のブログはデータ喪失を機に2011年3月25日に閉鎖された。その後、ドメインだけが売り出されていた。現在おなじドメインでつながるサイトは元とは無関係のようだ。Internet Archiveにオリジナルの痕跡が残る。
「この件」の発端は大江健三郎の作品である。
1957年(昭和32年)の『死者の奢り』という作品が、「この件」をモチーフにしている。この作品は芥川賞候補になって受賞は逃すも、次作『飼育』が芥川賞を受賞したために、合わせてよく読まれたようだ。
もとは同年の東京大学新聞に掲載された『奇妙な仕事』が編集者に認められ、執筆を促されて刊行になったもの。大江自身が当時のことを述べている。
その頃、友人が東大病院に入院して(中略)、「どういうふうだい?」って聞いたら、「毎日午後の六時になると、東大病院が飼っている実験用の犬が鳴き始めるんだよ」と。その友達が生き残って、病院で犬の声を聞いているという実生活上の出来事と、『けものたち・死者の時』を読んだのが偶然、同じ時期だった。それであの小説(注:『奇妙な仕事』)が出来たと思うんですね (中略)
「死者の奢り」は、アルバイトでムダ働きをした青年が、それを通じて自分が穴ぼこに落ち込んでいることを自覚するという小説で、主題においても進行においても、まったく「奇妙な仕事」をいわば変奏したに過ぎない。
大江 健三郎『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮文庫)
『死者の奢り』の主人公は文学部生の男で、舞台は大江健三郎の出身でもある東大のようだ。なるほど、文学部と医学部は、三四郎池を挟んで隣接している。伝聞をもとに想像を膨らませてリアリティのある物語を創作したらしい。これと同じモチーフは、橫光利一の戦前の1928年(昭和3年)の作品『眼に見えた虱』にも見ることができる。噂話自体は、これ以前からあったのだろう。
『奇妙な仕事』のほうも大概な内容で、現代なら活字にはなりにくいかもしれない。
ともかく、以来、大学医学部は「この件」の問い合わせを受け続けてきた。正しくは『死者の奢り』に描写された仕事の内容は「この件」の仕事とは異なる。伝聞の間に変容し定着したのだろう。それを先のブログが蒸し返した。
養老孟司氏は1985年(昭和60年)の著書『ヒトの見方』で「この件」を否定している。
「この件」がまだ都市伝説としてアクティブだったころ、解剖学の授業のオリエンテーションのときに、どこかからか耳に挟むだろうがウソだから噂話にのっかるんじゃないぞと、教授が念押ししたりしていた。最近は久しくきかない。オリエンテーションで念押しされるのは、すっかりSNSのことになった。
いまなら、解剖学会が大江に事の次第を聞き質しそうな話しだが、当時は無粋に思われたのだろうか。大江自身がネタ元を語ってくれたらいいが。
都市伝説を否定するのは難しい。ブルーライトの害など、論文がある方が「データ」があるだけ対応は簡単だ。都市伝説に対しては証言と状況証拠しかない。「悪魔の証明」というやつだ。
- 日本眼科学会、日本眼科医会、日本近視学会、日本弱視斜視学会、日本小児眼科学会、日本視能訓練士協会「小児のブルーライトカット眼鏡装用に対する慎重意見」
とはいえ、知り合いの関係者に聞いたりすると「ちっ」と内心舌打ちされるだけなんで、やめたほういい。
SNSのある現代なら、ルーツをたどってウソの発信源をみつけることができる。だとしても、怪しい話しに絡み取られないためには、やっぱり基礎学力と検証する力が重要だ。
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