海獣学者、クジラを解剖する。
クジラが海岸に打ち上げられたというニュースをときどきみかける。
ニュースになるのはときどきだけれども、日本の海岸ではクジラの座礁が年間に約300例あるという。ほぼ毎日だ。クジラなど大型の海生生物が海岸に打ち上げられる現象を「ストランディング」という。ときには数10から数100頭がいちどに打ち上がることもあり、「マス・ストランディング」とよばれる。
本来海にいる生物が海岸に打ち上がってくるのはなぜか。永く不明とされてきたが、地道な研究によって少しずつ分かってきた。
本書は、打ち上がったクジラの解剖に20年間取り組んできたひとの手記である。あまり見慣れない漢字がでてくるので、かなを振っておこう。
著者は国立科学館の海棲哺乳類の研究者。ストランディングの報告があれば全国津々浦々、とんでいって解剖する。急ぐ理由は2つあるという:
- 腐敗が進んでしまう
- 自治体により廃棄処分されてしまう(法によりそうしてよいことになっている)
そのようにして解剖するのは2つの目的がある:
- ストランディングの原因を探る
- 標本を作って博物館に収蔵する
そうして年間数100体から形態データをとり、病変や外傷がないか探り、標本を作って博物館に続々保管している。
保管庫が標本でいっぱいにならないかと心配になるが、博物館とはそのようにして種の分類の基準を保証する機関でもある。ヒトの場合は健康診断や診療に関わるデータが蓄積されているけれども、他の生物となればそうはいかない。珍しい生物が発見されて新種かどうか判断できるのも、こうした蓄積があるからだ。また、博物館はそれらの標本をもとに「企画展」「特別展」を開催し、教育機関としての役割も担っている。
キリンを解剖する研究者の本を読んだ。216ページなので軽い読み物だった。
クジラの本がとどいてから気づいたが、キリンの本より1.5倍厚い、336ページ。クジラだけでなく、イルカ、アザラシ、オットセイ、ジュゴン、マナティーもでてくる。いろいろな話題が盛りだくさんだ。一般向けの読み物としては著者の初めての著作だったという。20年分のネタが堰を切ってでてきたに違いない。
好きな動物の話しをするのが、好きなんだろうなあ。博物館で来館者向けに解説員をする仕事もあるという。そのせいか、語り口が平易、スムーズで、厚さが1.5倍でも楽しく読めた。
本文は上質紙にスミ単色。カラー口絵が8ページある。
いくつかネタを拾ってみよう。
動物の解剖資材には、ヒトの解剖道具をもとに作られるものが少なくない。たとえば晒骨器。骨から軟部組織を取り除いて標本にするために使われる恒温槽のことだ。国立科学博物館には、動物用に特注された晒骨器があるという。日本の医学部で晒骨器を持っているのはあるだろうか? 医療倫理上、現在国内では人体の晒骨標本を作成されていないようだ。
「アンスロポミター anthropometer」という巨大なノギスのような計測器も、もとは人体用だったという。Anthropologyは人類学。anthropo(人類)+ meter(測り)だから、人類計測器になるだろうか。アカデミックな名称だ。医療機関ではみたことがない。一部が骨盤計や児頭測定器として使われている。カタカナだとググってもでてこない。「身体測定器」でググると、身長計や皮下脂肪測定器がでてくる。人類学もやっている研究者にはご存じの方もいるようだ。
海棲哺乳類の生態と解剖学が興味深い。クジラに歯のあるのと口にヒゲが生えているのと2種類あって、それぞれに餌の捕食のしかたが違うという。いずれにしても、ダイナミックな食べ方だ。
クジラがかつて陸棲の哺乳類だったことは十分に知られているとは思う。もとの形態がどう変わっているか? クジラの「胸びれ」は四足動物の前肢と相同な形態を保っているとか、後肢だった骨格が痕跡的になっているとか。背びれや尾びれは皮膚が変形したものだとか。マナティーの肺は背側にあって、潜水艦のバラストタンクのような役割をしているとか。
コラム記事がいくつかあって、博物館などにまつわる小ネタが紹介されている。技術職員の技術継承は、大学でも問題なのだ。組織学実習の標本作製など、名人がいなくなっている。
あとがきによると、本書の脱稿は2021年6月。最近の話題もある。たとえばプラスチックによる海洋汚染。ストランディングの原因のひとつとしてそれが考えられているらしい。鎌倉の海岸に打ち上がったクジラの幼体の胃からプラスチック片がみつかり、それをきっかけに神奈川県が海洋汚染防止にのりだしたという。レジ袋有料化につながる法改正についても言及されている。
本書の出版社はなぜか「山と溪谷社」。登山とハイキングの雑誌「山と渓谷」の会社だけれども、生物学や博物学の著作や図鑑も多く扱っている。興味深いのも多い。
健康関係の本には、標準治療軽視、エビデンスなし、あってもn=1、なのもありそうで、そこは注意。
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