脳神経科学がわかる、好きになる

 

知り合いのベテラン精神科医の机に『カンデル神経科学』が置いてある。いろいろなページに貼られた付箋が小口から無数に飛び出し、カラフルだ。その医師は、読むといろいろなことが分かるようになって楽しいと嬉しそうに話される —— そんな風になりたいと思う。

とはいえ『カンデル神経科学』を始め、神経科学の名著はどれも700~1,700ページの大著だ。無謀なアタックは危険だ。少し準備した方がいい。

 

 

脳神経科学がわかる、好きになる』はたぶんそういう本だ。カバーの袖(折り込まれたところ)にそう書いてある。経験上「よくわかる」「好きになる」とタイトルにある本はたいてい「よくわからない」し「好きにもなれない」ので(*)、大丈夫だろうか? プロの評価を頼りに読んでみよう。

* 個人の感想です

 

カバーの袖

 

神経科学は一つのまとまった学問ではない。「脳」にいろいろなアプローチで臨む多様な学問(⁑)とそれぞれ多数の研究者の集まりだ。それらが研究所(理研脳科学研究センターなど)や、ハコ(建物)のない「グループ」(東北大学脳科学センターなど)をなしている。そんなもの、簡単に分かろうというのが土台無理な話だ。

⁑ 名称に「neuro」「psycho」「brain」とついた学問分野を数えてみよう。

脳神経科学がわかる、好きになる』の筆者は京都大学や米国コロンビア大学で解剖実習や基礎医学の教鞭を執られていた方で、現在は医療関連ソフトウェア開発の会社でプロジェクトマネージャーをされている。

本書では、神経科学を構成する分野がひとつずつ章分けされ、それぞれの要点や、興味深いはなしが集められている。ひとつのテーマが1〜数ページにまとめられていて、それぞれ独立し、通読しなくて済むようになっている。本書の他の部分に詳しく書かれているときには、参照ページが示される。ところどころに「コラム」があって、学問の背景や歴史、現在の学問的課題などが語られる。

A5版、300ページ弱の小さな本なので、構えずに読める。墨とオレンジの2色刷のシンプルなデザインで、余白が多く、クリーム色の上質紙が使われ目に優しい。簡単な模式図の付図がふんだんにあって、理解を助けている。

章を順に見ていこう。

  • Chapter 0 予備知識
  • Chapter 1 細胞生物学・生化学
  • Chapter 2 神経生理学
  • Chapter 3 神経発生学
  • Chapter 4 神経組織学
  • Chapter 5 神経解剖学
  • Chapter 6 中枢神経系の情報処理と機能
  • Chapter 7 神経化学・薬理学
  • Chapter 8 神経免疫学

最初の「Chapter 0」は「予備知識」。とはいえ、神経科学にすでに困らされているなら、既知の内容だろう。むしろ、本書を読むにあたってのガイダンス(0-3)がこの章のキモだ。章のカウンターがゼロから始まっているのにイラッとさせられたとしても、ここは押さえておこう。神経科学だけでなく、大きな学問に始めて取り組むときに共通する心構えでもある。

ここで予防線が張られているとおり、本書には筆者個人の意見・想像・妄想もところどころに紛れている。筆者なりの「まとめてみた」だけれども、神経科学で五里霧中になっている読者を導いてくれる。神経系をともかくも飲み込むのが楽になったり、ちょっとでもおもしろそうになればよい(⁂)

⁂ 普通の教科書でもイミワカランということはあるので、教科書を読む態度一般として妥当ではある

本書の欠点を一つ挙げておくと、こうした「意見」の部分には文献への参照があってほしい。個人の意見といっても、科学者の意見は根拠があってのことだから、ホントカイナというときに確認したいものだ。

 

予防線が引かれている

 

Chapter 1は、細胞生物学・生化学。神経系に関わるポイントがいくつかレビューされている。

しかし、細胞生物学・生化学自体を学んだことがないと、読むのは大変そうだ。情報科学や工学の読者も本書のスコープに入れられいるが、生物学の経験がゼロだと厳しいかも知れない。もっとも、テーマが独立しているのだからチャプターごと後回しにすればよい(Chapter 0 を思い出そう)

 

 

Chapter 2は神経生理学。神経生理学といえば、膜電位と活動電位だ。活動電位をとりあえず理解しておくための筆者なりの工夫がある。数式はなく、模式図だ。本書を全体を読むにはこれで十分だ。ここで手持ちの生理学の教科書に手を伸ばしたくなるかもしれないが、やめておこう。本書を読み始めた意味が無くなる(特にそれが『ガイトン生理学』なら)。

 

膜電位とイオンチャネル

 

Chapter 3は、神経発生学。発生学だけでなく、軸索伸長、可塑性、変性や再生まで、話題が広がる。

 

発生学の外にも話題が広がる

 

Chapter 4は神経組織学。顕微解剖学としての組織学ではなく、神経系の組織の成り立ちだ。

 

 

Chapter 5は神経解剖学。伝統的な「点と線を結ぶ」タイプの形態学でも、「臨床症状と部位局在」を学ぶタイプの臨床学でもなく、発生学から神経系の形態を語り起こそうとしている。筆者なりの説明の工夫が多い。授業で神経解剖学を普通に学んだことがあるとよくわからなかったりするが、Chapter 0 を思い出そう。

反面、よく使われる解剖学名や伝導路が、図だけでまとめられている。もしこれらに説明を付けて項目立てしたら、かなりのボリュームになっていただろう。ある程度知っているならとばせばよい。次のChapter 6から参照することもあるだろう。

 

神経解剖学を発生から説明する

 

Chapter 6は、中枢神経系の情報処理と機能。本書で最もページ数がおおく説明も複雑だ。そもそも脳の機能を理解するために神経科学があるので、その本幹でもある。発生や進化も取り入れて、脳の機能を階層づけて説明しようとしている。概念的な話が多いので、情報工学のひとも親しめるだろう。

まだ研究の発展途上の分野なので、話の先がふと霧の中に隠れてしまう(まだ分かっていません、研究が進められています、…)。チャレンジングな方向性がたくさん見つかるだろう。

 

脳の機能を理解する

 

Chapter 7は、神経化学・薬理学。くすりにまつわる話。脳の臨床で基本になる話だ。

 

脳とくすり

 

Chapter 8は神経免疫学。神経科学からも、免疫学からも、取り上げられることの少なかった話だ。本書のなかで臨床に関わることの多い章でもある。評者自身はこの章に興味を引かれた。

 

脳の免疫はどうなっている?

 

さて、神経科学を好きになれるだろうか。たぶん、好きそうなテーマが1つ2つあれば今は御の字だろう。本書を読めば神経科学のパースペクティブがともかくもできているだろうから、図書館で『カンデル神経科学』を借りて試してみても大丈夫だ。

神経解剖学の授業で試験をパスするのに役立つだろうか。これから授業が始まるというタイミングなら、役に立つ。

一方で、すでに授業が始まっているとか、来週試験だということなら、講義をよく聴いて、実習の前に予習をして、実習をがんばって、過去問をやってみるのが先だろう。教員とは違う説明の仕方がほしかったら、本書の該当ページで見方を変えるのもよいかも知れない。使えなそうなら止めておこう(Chapter 0 を思い出そう)。科目が神経生理学だとしても同様。

本学では来年度のカリキュラム変更で、神経関係の科目(膜生理学、神経生理学、神経解剖学、神経薬理学、神経病理学など)が統合される。そうなると本書の役割が増すかも知れない。

本書には電子版(Kindle版isho.jp版M2PLUS版 など)もある。