解剖実習に関する心得（旧）

解剖実習に関する心得

一　実習場裡（じょうり）に在りては　決して屍体に對し無礼の挙止（きょし）あるを許さず　蓋（けだ）し吾人同類の遺骸を解剖することを得るは獨（ひと）り医学に従事する徒（と）の享（う）くる國家の特典にして　帝王の富貴と雖（いえど）も是（これ）を敢（あえ）てすること能（あた）わず　是（これ）を以て学術の為め能（よ）く犠牲となりたる者に對（たい）しては　深く敬謝の意を表せずんばあるべからず

二　実習場裡（じょうり）に在りては　総て監督教官の指揮に従い　諸般の規定を遵奉（じゅんぽう）し秩序を維持し清潔を勵行（れいこう）すべし　若（も）し疑難（ぎなん）の質（ただ）すべきものあれば　該当監督者若（も）しくば其（その補助者に就（つい）て行ふべし　猥（みだ）りに獨断（どくだん）の處置（しょち）をなすを許さず

三　屍体よりは其（その如何（いか）なる部分たりと雖（いえど）も　所定の場所以外に持ち去ることを厳禁す

四　凡（すべ）て器械類は使用後は必ず丁寧に拭乾（からぶき）し旧位に復すべし　又自家の所管に係（かか）る物品は良く区別整理し　決して他と混雑を生ぜしむること勿（なか）れ

五　既に屍体の分配を受けたるときは　解剖に着手するに先だち　該当部に措（お）ける解剖学上の知識を豫習（よしゅう）し　之（これに通曉（つうぎょう）するにあらざれば　決して手を下だすこと勿（なか）れ　否（あ）らざれば反（かえっ）て貴重なる資料を徒費（とひ）するの恐れあり　又解剖作業中は必ず参考用図書を携帯し　坐右に備へ一々誦閲對照（しょうえつたいしょう）すべし

六　剖査せる部局は勉めて自ら其（そ）の実況を描寫（びょうしゃ）し　或（あるい）は記録するを利益とす　斯（かく）の如（ごと）くにせば自家の観察をして倍々精緻ならしめ　或（あるい）は質疑の資となり　大に知識を補益するの利あり　又我邦（わがほう）の現状を以てするときは屍体の供給極めて窮乏（きゅうぼう）を告ぐるを以て　多くは所定の学期間に於（おい）て　全身に渉（わた）り解剖の完結を得るは希（まれ）なり　故に他人の解剖する部分と雖（いえど）も　其（その）作業に妨げなき限り請（こい）て視査することを怠るべからず　若（も）し形位の異状なるものに遭遇するときは　能（よ）く其（そ）の状（かたち）を描寫若しくば記録するを要す

七　実習に従事せんとするときは豫（あらかじ）め白衣を用意し　常衣と交換すべし

八　解剖の際　過ちて負傷せるときは直（ただち）に監督者に就（つい）て其（そ）の處置（しょち）を請べし

医学博士 鈴木文太郎謹述（PDF版）

額装され2005年まで当学解剖学実習室に掲示されていたものより転記。

鈴木文太郎

生年： 元治1.12.3（1864.12.31） 没年： 大正10.1.9（1921）

明治大正期の解剖学者。金沢生まれ。明治21(1888)年、帝大医科大を卒業、大学院に進み解剖学を専攻。26年、第四高等学校教授。29年、文部省留学生としてドイツに留学し解剖学を研究。32年に帰国、同年新設された京都帝大医科大教授となり、解剖学講座を担当。34年医学博士の学位を受ける。わが国における解剖学の初期に当たって『局所解剖学』『解剖学術式手訣』などを著した。また、ドイツ留学中に習得した彫刻および石膏術から、人体描写についての『美術解剖学』(共著)も著し、美術解剖学の基礎を築いた。このほか形質人類学の研究を行うなど、多彩な活動を残す。

（朝日日本歴史人物事典 (朝日新聞社、1994)より）