美術解剖学と美術史と医学史
解剖学の名著を下支えしていたのは常に、真に迫る詳しさと正しさとともに明解さを兼ね備える図版を描いたイラストレーターだ。一方で、解剖学は、人物画家、彫像作家、マンガ家、アニメーター、フィギュア作家などの基礎でもある。これらアーティストのための解剖学を「美術解剖学」という。
美術解剖学から「アタリ」まで
Amazon.co.jpを検索すると、美術解剖学の教科書が多数出版されているのが分かる。一般の人物画、マンガ、アニメの指南書にも解剖学に言及しているものが少なくない。
美術解剖学で主に取り上げられるのは、解剖学全体でいえば骨格系、関節系、筋系、靱帯になる。単なる形態学や解剖学用語の解説ではなく、動作も考察に加えた「運動器」が論じられる。皮膚の下にそれらを想定して、よりリアリスティックな人体を描く。
学術的な解剖学書の人体はいずれも「解剖学的姿勢」をとっているが、美術解剖学ではいろいろな視点から、さまざまなポーズや動作が描かれる。
ソッカの美術解剖学ノート
Amazon.co.jpの美術解剖学書で最も人気の高い美術解剖学書のひとつ。イラストに曖昧な線や陰影がなく、とてもクリーンでみやすい。骨や筋についての解剖学的な情報が、その働きや意義とともにキチンと記載されている。アニメ、イラスト、マンガの作家向けの情報も事欠かない。レビュー
芸術家のための人体解剖図鑑
英米で人気の高い美術解剖学書。ヌード写真が多数使われ、著者によるイラストで解剖学が伝えられる。人物画のリファレンスとして有用だ。
写真はいずれも美しく、解剖学的な特徴がよく捉えられている。解剖図は、いかにも伝統的なタッチの鉛筆スケッチで、線に勢いはあるが曖昧なところや不正確なところもある。骨や筋はよいが、血管や神経の図はディテールが怪しげだ。
写真の上にトレーシングペーパーのページが重なり、対応する解剖図が描かれている。体表解剖の理解に役立つ。
名画を解剖学的に解読する記事が興味深い。画家がどのように人体を省略・誇張・理想化しているかが読み取れる。
スカルプターのための美術解剖学
スカルプターのための美術解剖学 -Anatomy For Sculptors日本語版-
美術解剖学書では『ソッカの美術解剖学ノート』とならんで人気が高い。彫刻家だけでなく、イラストレーター、フィギュア作家、3DCGアーティストにもよく読まれているようだ。
様々なポーズを取ったときに運動器がどういう形になっているか、写真とその上に重ねて描かれたドローイングなどで描写される。重力の掛かった皮下組織にも言及される。
脂肪とシワを描く
美術解剖学のシリーズのひとつ。美術解剖学の本には筋骨隆々なモデルやイラストが多い中、本書にあるのは、重力下の中肉から肥満までの人体。
アニメーターが教えるキャラ描画の基本法則
マンガやアニメーションを描くのに、いつも骨や筋から肉付けして描くわけにはいかない。実際に初めに描かれるのは、「アタリ」。アタリというのは、形の大雑把な目安のこと。印刷業界ではレイアウトの目安線、アニメやマンガでは人体などを球や円錐などで描いた概略図になる。
そのまま細部を描いて仕上げることが大半だろうけれど、解剖学の根拠が作家にあるかどうかでリアリティーは変わる。
骨格・筋肉の模写を繰り返し行っている人も多いと思いますが、模写はできても、イラストに応用できていない人が多いようです。それは形の模写だけに一生懸命になってしまって、骨格と筋肉のしくみについて深く考えていないからです。
医学部の解剖学で暗記や剖出作業の沼にはまってしまったりするのも、上と同じようなことかもしれない。
どんなポーズも描けるようになる! マンガキャラアタリ練習帳
解剖を知ることは、正確なアタリを取る最初のステップ、という。ほんとうにどんなポーズも描けるまでには、ミケランジェロのような鍛錬が必要だろうけど、基礎から始めるのは重要なことだ。
名画と解剖学
著者は、歴史・サイエンスライター/エディトリアル・デザイナー、マルチメディア・クリエーター(著者紹介から)。『骨単』、『肉単』、『臓単』、『脳単』の作者でもある。解剖学用語の語源を発端に解剖学を学び、解剖学書、美術解剖学書を書いた。本書では、名画を解剖学的に考察し、鑑賞を深める。
解剖と美術
物事の始まりを決めるのは難しい。洞窟に動物の絵を描いていた狩人たちは、動物を解体するためにその構造はよく知っていたに違いない。しかし、美術作家が作品制作のために解剖学を体系的に学ぶようになったのを起源とすると、美術解剖学の最初はイタリア・ルネサンスとされる。
レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519)は生涯に30体以上の人体解剖を行ったとされる。それは学術研究というより、自らの芸術に役立てるためだったらしい(1, 2)。彼はこれを膨大な手稿(約5000ページが現存)にスケッチやドローイングとして記録した(3)。しかしこれらが存命中に発表されることはなく、19世紀後半に手稿が出版されるまで広く知られることはなかった(2)。
レオナルドより23歳若いミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)もまた、人体解剖やスケッチを重ねた。人体の構造について独自の探求に心血を注ぎ、ついにはどんなポーズや動きでも苦もなく描けるようになったという(1)。
ブリュッセルに生まれたアンドレアス・ベサリウス(1514-1564)は実証主義に基づく現代解剖学の創始者といわれる。それ以前の解剖学はガレノス(129年頃 – 200年頃)の確立したものだったが、大半が動物の解剖に基づいていたために誤りが多かった。ベサリウス以前の解剖学の「教授」は、人体解剖の授業では上席から見下ろして指示するだけで、実際の作業は「床屋」(当時は外科医も兼ねていた)が行っていた。ベサリウスは自ら人体解剖を行い、数々の発見をして解剖学を再構築した。
ベサリウスの最大の成果が全7巻からなる『人体の構造に関する7巻の本 De humani corporis fabrica libri septem』、通称『ファブリカ』(1543)である。『ファブリカ』には多数の詳細でリアリスティックな解剖図が使われた。いずれもプロのアーティストによるもので、当時名声を得ていたティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488-1576)の工房の作品と考えられている(4)。このころの美術制作は、有名な「親方」名義で、本人のほか工房の職人達によって制作されることが多かった。いまの日本なら「さいとうプロ」のようなものだ。『ファブリカ』は大成功を収め、1782年までに25版を重ねた。
美術解剖が急速に広まったのは、18世紀だったようだ。オランダの解剖学者ベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス(1653-1721)は、『人体の骨格および筋肉図版集 Tabulae sceleti et musculorum corporis humani』(1747)を制作し、『ファブリカ』に次いで広く影響を及ぼした(2)。その解剖図を描いたのは、友人の画家ヤン・ワンダラーである。
今も名の残る『グレイ解剖学』の初版『Anatomy: Descriptive and Surgical』(1858)は、出版当時その簡潔明瞭な解説とともに詳細で明解な解剖図によってベストセラーになった。著者ヘンリー・グレイ(1827-1861)は、英国セント・ジョージ医学校の外科学・解剖学の講師だったが、第2版の出版を待たずに天然痘で命を落とした。解剖図を描いたヘンリー・カーター(1831-1987)は、当時まだグレイの元で外科医を目指す医学生だった(5)。今日『グレイ解剖学』は一般にも広く知られている。
リファレンス
美術史と医学史
美術の物語
エルンスト・ゴンブリッチ(1909-2001)による美術史のロングセラー。初版は1950年で、存命中の最終版が第16版。洞窟の壁にバイソンを描いていた時代から現代アートまで。その最初の文がよく知られる。
There really is no such thing as Art. There are only artists. – Ernst Gombrich
日本語版はこれまで何度か出版され(2007年デスク版、2011年ポケット版)、絶版になるたびにプレミアが付いていた。本書はデスク版の再版。図版が大きく、印刷が高品位で美しい。日本語訳も自然で読みやすい。
図説 医学の歴史
著者の坂井健雄氏は日本の解剖学者で、解剖学書の著作、共著、翻訳が多数ある。古い解剖学書・医学書・文献のコレクターでもある。本書はそのコレクションの研究の成果。医学史の過去の文献をなぞるのではなく、膨大な原典資料に基づいて医学史が再検証・再考されている。
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