根拠がわかる注射のための解剖学

根拠がわかる注射のための解剖学

根拠がわかる注射のための解剖学

佐藤 達夫
4,400円(04/19 07:15時点)
Amazonの情報を掲載しています

針を刺す前に読もう。日常の手技を自分で解剖学的に根拠づけよう。

新型コロナウイルスのワクチン接種が進んでいる。今回のワクチンはいずれも三角筋への筋注になる。これまでのワクチンは上腕の皮下注のことが多かったので、接種担当者は手技を再確認したはずだ

従来の多くの指導書では肩峰から三横指下が刺入部位とされている。一方で腋窩神経や三角筋滑液包を障害する事故が生じていたことが整形外科の医師らから指摘され、より安全な刺入部位として、前後の腋窩ひだを結ぶ線と肩峰から下ろした垂線との交点がよいとされた。

どちらがよりよいのかは、前向き研究に依らなければならないだろうが、いずれにしても解剖学的根拠に基づく議論であることが重要だ。そもそも臨床手技全般にいえることである。

本書は臨床の現場でどこでも頻繁に行われる「注射」、すなわち「静注」・「皮下注」・「筋注」を解剖から基礎づけようとしたもの。これまでの臨床手技の指導書が解剖に言及していないわけではないが、多くは模式図が使われている。既存の資料の模写、さらにその模写のことも多く、必ずしも解剖学的に正確とは限らない。本書では実際に新たに解剖し、その写真や描き起こされた解剖図が使われている。

著者は東京医科歯科大学名誉教授で、肉眼解剖学者であり、解剖学関係の著作や翻訳書がある。解剖学的変異をまとめた『日本人のからだ―解剖学的変異の考察』は空前絶後であった。医学教育コアカリキュラムの委員長も務めた

 

まえがきから:伝承的な現場

 

取り上げられている「注射」は下のとおり。いずれも日常、看護師や医師、ときには臨床検査技師(採血)のやる手技だ。エコーガイド下で医師のやるような中心静脈や動脈への注射、腰椎穿刺、麻酔などは含まれない。

  • 肘窩の静脈の静注・採血
  • てくび、あしくびでの静注
  • 上腕への皮下注
  • 殿筋注射
  • 小児の大腿への筋注
  • 三角筋注射

判型はA4で、見開きの紙面に図が大きくレイアウトされている。文字も大きい。注射に関わる医療関係者は、新人からリタイア後の復活まで、年齢が幅広い。ユニバーサルデザインが好ましい。

肘窩のところをみてみよう。

皮静脈の形態は多様だ。手掌の皮静脈は個人認証にも使われる。肘窩の皮静脈にもいろいろなパターンがあり、頻度が異なる。『日本人のからだ―解剖学的変異の考察』や『日本人体解剖学』など大きな解剖学書には皮静脈の多様性も記載されているが、本書では見開きの大きな図になっている。頻度順に図の大きさが変えられていて、わかりやすい。

模式図と解剖写真とが並べられているところもある。解剖体は「シール固定法」で処理されていると思われ、生体にちかい色調とテクスチャーを保っている。

 

肘窩の皮静脈のパターン

 

解剖写真と模式図が並べられている

 

日本では長期間にわたって詳しく人体を解剖するのは、ほとんど医学生だけだ。看護学生の解剖学の授業では、実習があったとしても、あらかじめ解剖された人体標本を見学する「見学実習」になる。そのときに分かりにくいのが、深さ方向の位置関係である。

医学生は苦労しながら皮下組織をとりのぞいて皮静脈や皮神経を剖出し、筋膜を切ってさらに奥の構造との位置関係をみる。「労力」で位置関係を体験している。これは実際に解剖をやってみないとわからない。

本書では、そうした肘窩の解剖を写真で順に疑似体験できる。結合組織に埋もれた神経や血管を掘り出す作業もみてとれる。意図的かどうか分からないが、『解剖学カラーアトラス』ほど精緻に剖出を追い込んでいない。神経や血管の周りにへばりつく結合組織が残っていて、それらが皮下に埋もれていたことを示している。それぞれの写真にみえる構造を細かく確認しながら、解剖を追っていくとよい。

実は、医学生の解剖学実習でも、後に注射で使うという意識を持って解剖することはほとんどない。言ってもなかなか伝わらない。静注の練習は数年先にやることだから、実感がないのはしかたない。いざ静注をやるというときに本書で解剖をふり返ったらいいだろう。

 

肘窩の解剖

 

次は殿筋注射をみよう。実は、国内で多く使われている解剖学実習のテキスト『解剖実習の手びき』には、筋注の部位として大殿筋を使うとある。坐骨神経を傷つけるおそれがあるので、現在は筋注には使われない。標準は中殿筋だ。教員からの補足なしにこの本で解剖学実習をした医学生は、あとで困ることになるだろう。十年一日の解剖学とはいえ、あまり古い本で勉強するのはよくない。(本学は『グラント解剖学実習』なので大丈夫。)

本書ではもちろん中殿筋だ。上殿神経を傷つけると「トレンデレンブルグ徴候」を伴う歩行障害になってしまうので、それを避けるための情報が、骨標本、模式図、解剖写真を使って説明されている。

章末には参考文献のリストがあって、エビデンスとしての役割を保っている。

 

『解剖実習の手びき』から:そもそも大殿筋が筋注には禁忌

 

中殿筋への筋注部位を模式図と写真で

 

参考文献

 

新型コロナウイルスのワクチンは三角筋注射だ。本書の最後でこれも詳しく説明される。従来のやりかたは肩峰の三横指下を刺入部位にしていたが、ここには実は腋窩神経が走っている。腋窩神経は三角筋の裏側から筋に入るから、針が深く進みすぎれば神経に当たるかもしれない。これを傷つけると上腕の外転・屈曲・伸展が障害される。そのため、本書では安全な部位を再検討している。

本書でも、より安全な刺入部位として、前後の腋窩ひだを結ぶ線と肩峰から下ろした垂線との交点が紹介されている。

 

肩峰の三横指下には腋窩神経が走る

 

前後の腋窩ひだを結ぶ線と肩峰から下ろした垂線との交点